製鉄の技術が古代を解く鍵

 製鉄技術の起源は歴史上、古代ヒッタイト帝国がはじまりとされる。実際、紀元前2000 年頃のヒッタイトの都ボアズキョイ遺跡からは、製錬された鉄が発見されている。 ヒッタイト帝国は、この鉄器により、強国エジプトを脅かし、オリエントの覇者になったことはよく知られている。


 この製鉄法は、鉄鉱石を比較的低温度で焼いて出来た海綿状の純鉄を高温加熱殴打する鍛冶で錬鉄を作る塊錬鉄法で、十分ではないが、このプロセスの過程で、侵炭による表面硬化も開発された。鉄剣は、銅剣や青銅の剣にくらべ、軽くて硬く、切れ味がいい。つまり、斬る、刺すといった用途には、鋼鉄は最適。


 製鉄の最大の目的はやはり戦いの為の刀が必要であった為と考えられる。より軽く、硬く強い鉄が相手を倒し、自分の身を守る。戦いの勝敗を決める重要は研究であった。


 その後、この製鉄技術は、紀元前12 世紀頃 ヒッタイトが滅亡すると東アジアから、四方への製鉄技術の伝播が始まり、またたくまに エジプト・西アジア・ヨーロッパ そして ユーラシア大陸を横断し、インド(紀元前10 世紀)、紀元前9 世紀には中国に伝わったといわれ、ユーラシア大陸の東の端日本にも伝来した。


 中国や大陸では 伝来のごく初期 塊錬鉄法であったが、紀元前2 世紀 前漢の時代にはすでに、鉱石を高温溶融して溶融銑鉄得る溶融銑鉄法も始まっており、鋳造技術が発達した。また、それを素材として溶融して鋳物鉄器を作ったり、再溶融で銑鉄中の炭素を酸化脱炭して、鍛冶加工の可能な硬くて粘い低炭素「鋼」を作る方法が早くから広がり、大量の鉄が製造されていた。






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 天日矛はこの製鉄の技術を持ってきた。記紀では彼は最終的に兵庫県但馬の円山川のあたりに定着したとかかれている。この地方には銅鐸が発掘されているが、微塵になった銅鐸が発見されている。人為的に細かくされた銅鐸である。

 考えられるのは、製鉄の技術を説明する、証明するために銅鐸が使われたしか考えられない。以下に製鉄が素晴らしいかを証明するためのものだったに違いない。この地方には昔からある、生野鉱山があった。

 生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられるが、詳細は不明。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊により、石見銀山から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まった。
 
 「佐渡の金山、生野(イクノ)の銀山」として知られる銀の町として有名な兵庫県生野。生野鉱山は約1200年前に開坑されたとも伝わる古い鉱山で、操業時の坑道は地下880m・坑道の長さ延べ350kmにも及び、採掘した鉱石は、金・銀・銅・亜鉛など70種類にも及びました。山名・織田・豊臣・徳川の直轄地を経て、明治22年以降皇室財産になりましたが、明治29年には三菱に払い下げられ昭和48年にその長い歴史を閉じた。

 日本の武士道、刀の製鉄にも関連していそうである。




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